義鶴の鉄扇ブログ 戦国系?鉄扇エピソード
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2008-11-19

小野忠明と鉄扇

世間にひとりの馬鹿がいた。両国のあたりに「剣術無双。誰であろうと真剣で立ち会え。たとえ斬り殺されようとかまわない」と看板を出し、日々見物人が鈴なりになっていた。 この男を斬ることができずに、逆に木刀でしたたか殴りつけられた者は門弟となった。

 この男の評判が次郎右衛門の耳に入り、このような馬鹿を天下のお膝元に置いておくわけにはいかないと門弟を引き連れて見物に行くことになった。傍らから馬鹿の演じる技を見て門弟一同薄笑いを浮かべていると、それが馬鹿の知るところとなり、ひどく怒った。

「なにを笑うのか。あのとおり看板を出し、誰であろうと真剣でかかってこいと言っているのだ。いざ勝負勝負」

 彼の門弟があわてて袖を引いた。

「先生、相手が悪い。あれは将軍家の御師範、次郎右衛門ですぜ」

「たとえ御師範だろうが」

 馬鹿は一歩も引かない。次郎右衛門もこれだけ嘲られては武士の恥。仕方なく河原に降りて、

「かくなるうえは立ち会いつかまつろう」

 と、鉄扇を手にして立った。馬鹿は正眼に構え、ただ一刀と斬りつけた。一見危うく見えたが次の瞬間、馬鹿の眉間は鉄扇により打ち砕かれていた。この事件が大猷院様のお耳に入り、師範たる者の行動ではないとして遠流を仰せ付けられた

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2008-11-18

芹沢鴨と鉄扇③

芹沢ら 角屋で酔って乱暴・・・
島原には揚屋(アゲヤ)と置屋(オキヤ)があり、揚屋は太夫・芸妓などを置かず、置屋から太夫・芸妓などを呼んで宴会を催すところ、高級な料亭で、各種接待の場でもあり、文化人や侍、豪商などの集うところでした。 丸山応挙や蕪村など、当時一流の画人の作品なとも残されていて、特に蕪村の「紅白梅図」の大作は重要文化財に指定されています。
 江戸中期の島原には、俳壇が形成されており、中でも角屋6代目・7代目の当主は蕪村・太祇らを師として俳壇の中核として活躍していました。
  幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王志士たちが軍用金調達のため、時の豪商をここへ招いて会談を行ったいわゆる接待所です。
 鴨居に残された刀傷は有名で、新撰組が斬り込んだ時のものだとされています。
新撰組の芹沢鴨が酔っ払って刀を振り回した時のもの、という説もあります。
角屋における新選組の話で最も有名なものは、酔った芹沢鴨が大暴れした事件である。発端は文久三年六月。水口藩公用方が会津藩公用方に「壬生の浪士は乱暴で、迷惑している」と述べた事に始まる。当然の事ながら、会津藩から芹沢鴨らに苦情が来た。

これに黙っている芹沢ではない。早速、永倉新八、原田左之助、井上源三郎、武田観柳斎に命じて、水口藩の公用方を連れてこさせようとした。

驚いたのは水口藩邸である。公用方を引き渡せば命は無い事ぐらい想像が付く。結局、平謝りに謝って、永倉らに詫び状を書かされて、その場は納まった。

しかし、この詫び状が問題であった。この事が藩公の耳に入れば、公用方の切腹は免れない。詫び状の返却を、二条通りに直心影流道場を開く戸田栄之助を通じて永倉新八に頼み込んできた。永倉としては「自分一人で決める訳にはいかない」として、隊士が全員集まって話し合える場所を提供するように求めた。「返す代わりに宴会を開け」という事である。こうして角屋で水口藩接待の宴会が開かれた。

詫び状は問題なく返却されて、百余名の隊士による大宴会となった。ところが芹沢が悪い病気を出し始める。言わずと知れた、酒乱の気である。そして、とうとう芹沢が暴れ出してしまった。

こうなっては誰も芹沢を止められない。鉄扇を振り回し、瀬戸物、膳碗、見境無しに壊し始めた。恐れをなして、隊士もたちまち逃げ出してしまう。現場に残っていたのは、永倉と土方だけだったという。土方の眼には芹沢が、如何に映ったのであろうか。

芹沢の暴挙は納まらず、廊下に出ては手摺を引き抜き、帳場の酒樽を叩き落とす。流し場に出ては瀬戸物を手当たり次第に叩き壊す。散々、暴れ回った芹沢は「角屋徳右衛門不埒によって」として七日間の謹慎を命ずる始末。更に一暴れした芹沢は、「まことに愉快」と、ようやく引き揚げたという。

この角屋で見せた芹沢の暴挙は、隊士達にとって忘れられない姿であったろう。

またある3名が彼と意見を異にした時、芹沢は3人を並ばせて次々と首を刎ねてしまった。また鹿島神社に参拝した時には常に持っていた愛用の鉄扇で拝殿の大太鼓を叩き破った。これをきっかけに江戸に召喚され査問を受け、党員らの首を刎ねた件に関しても届け出ていなかった為に死罪を申し渡される。

この時、死を覚悟して小指を噛み切ってちり紙に書いたとされる辞世の句が残っているが、清川八郎の献策(浪士隊)で大赦が行われたため出獄できた。

2008-11-15

芹沢鴨と鉄扇②・③

角屋は芹沢鴨一派を暗殺するため、近藤勇たちが大宴会を開き芹沢鴨等を酔わせた所でも有名。京都上洛以来、主導権をめぐって争った近藤派と芹沢派両派。芹沢派には乱暴者が多く、隊の名を汚す行為が目立ったため、京都守護職からの密命を受けた近藤派が静粛を行ったというのが一般的である。芹沢鴨は角屋で客扱いに腹を立て、自慢の鉄扇を振り回して食膳などを叩き割るなどの業を行っていたとされる。泥酔状態で八木邸に戻った芹沢らが暗殺されたのは1863年9月16日の大雨の夜のことであった。
角屋を出て更に西に進むと西門跡。島原には東門だけでなく西大門もあったが、昭和52年の交通事故により全壊、門柱のみが復元された。しかし平成10年再び交通事故によって壊れてしまう。極めて最近のことだけに惜しまれる話である。現在は石碑が立つのみである。

浪士組が中仙道を京に向け出発したのは2月9日のことで、その日板橋についたところで大休止となった。ここで先番宿割役の近藤らは一足早く宿泊予定地である本庄に向かった。
この時、近藤の手違いで三番隊の組頭・芹沢鴨の部屋割りを落としてしまった。
激怒した芹沢は、本庄宿の真ん中に古木材を集め、天を焦がさんばかりの大焚火を始めて、本庄宿の者を恐怖に陥らせた。近藤は芹沢を先生、先生と崇め奉って、手落ちを謝ったが芹沢は聞き入れず、火を消すようにとどなりこんできた宿役人を鉄扇でなぐりつけて気絶をさせるなど、やりたい放題だった。芹沢の大鉄扇は目方が300匆もあり、「尽忠報国の士芹沢鴨」と刻印してある自慢の品であった。
結局芹沢の部屋を新たに設けて案内すると、「三番組」という宿割り札が気に入らぬと言って一番札に書き直させて、部屋に入っていったという。
この芹沢は後に新撰組局長となるが、水戸の天狗党出であるのを鼻にかけた我侭っぷりによって自ら死を招くことになる。
2008-11-13

後藤又兵衛と鉄扇。

関ヶ原合戦で「黒田長政」は、東軍徳川方に参戦。
合渡川の戦いでは、又兵衛の作戦により、
一番乗りの戦功を立て、筑前五二万三〇〇〇石の大封を与えられた。
そして又後藤又兵衛も大隈一万六〇〇〇石を封ぜられた。
外面的に見れば両者の仲は、うまくいっているようにみえた。
しかし長政は朝鮮の役での遺恨の矢を、意外なかたちで放ってきた。


又兵衛の次男左門基則は若年十二歳なれど、長政の小姓として福岡城に上がっていたが、
一日、能楽を催した長政は、不意にこの左門に小鼓の囃子(はやし)を命じたのだ。
慶長十一年早春のことである。
左門は小鼓の上手として知られていたが、即座に辞退した。
武士たる者が、能楽師の引き立て役にされることを屈辱としたからである。
が、長政は辞退を許さず、やむなく囃子を務めた、しかし左門は心おさまらず、
父の居城である筑前小隈城(ちくぜんおぐまじょう)まで、五里の道を馬をとばして駆け戻ったのであった。

「無断で脱出して参ったのか、してその訳は?」
黙って理由を聞いた又兵衛は一言、
「下がって休むがよい。」と命じた。
しかしながらこれはゆゆしきことであった。
左門にとって主君長政のもとを無断で立ち去ったことは、
自身の命ならずも、一族郎党すべてに重大な影響を与えるからである。
天守閣を立ち去った左門は、自らの命と引き替えにこの責をとろうとしたのであった。
あわや切っ先を、腹に突きたてんとしたその時である。
背後から鉄扇が降って、懐剣をたたき落としたのであった。
「うつけ者、たった一つの命を粗末にするでないぞ。」
左門のまえにどっかと胡座をかいた又兵衛は、
「君が君たらざれば、臣は臣たる必要は、みじんもなし。
たしかにこの又兵衛、幼少の頃より、如水軒(にょすいけん:黒田孝高)様にひきとられ、
世子長政殿と同様に育てられた。その高恩は、海よりも深く、山よりも高い。
その為今日まで、一身をなげうって黒田家のために尽くしてきた。
すでに充分な働きはなし得たと心得る。
さればたかが、一万六〇〇〇石の陪臣の座など、弊履として抛り捨てるに一片の悔いもなし。
明日はこの小隈城を立退いて、天下の山野を家といたそうぞ。」
そう云いはなって、高らかに笑った。
翌朝、父子ともども黒田家を立ち退いたのであった。



2008-11-13

小太刀ノ半七

二代将軍秀忠の時に、小太刀半七という剣法の達者が鉄扇をもって仕合をすることに妙を得ているということを秀忠が聞いて、それには何か特別の術があるかと尋ねて見た処が、

「別に何の術もございませぬが、仕合を致しまするときに、何となく面白い心持が致すのが極意でございます」

 と、返答をしたので、秀忠が大いに感心して云うことには、

「すべて戦などに臨んでもその通り、面白しとさえ思えぱ恐しいことはなくなって、謀も自から出て来るものである、聊かの争いにも心が迫って顛倒するところから手ぬるくなっておくれをとるものだ」と云われた。 (三河之物語)

大分鉄扇のエピソードも増えてきましたね、いずれはまとめなきゃまずいかな?
プロフィール

義鶴

Author:義鶴
鉄扇術・手裏剣術を中心に武術に関しての記事を書いていきます。
特に鉄扇(武具?)に関しての興味が尋常ではないので同好の士、アドバイス、情報提供、鉄扇の種類等逆に聞きたいことがある方はどんどんご連絡くださいませ。
連絡先 tessendou@yahoo.co.jp
日本舞踊藤間流   藤間朱位 門下
表千家       池田十三 個人門下
都山流尺八学会   安島瑶山 門下
根岸流手裏剣術   本部早坂道場門人
明府真影流手裏剣術 門人
日暮里誠道館手裏剣術研究会(無流派)会主
群馬県大泉手裏剣術研究会 (無流派)副会主
春日部手裏剣術稽古会   (無流派)会主
日本古武道振興会      会員

和に関連する活動に関して列記しました。特に素性は隠さない方針です。本名を書き込んだりはしませんが、気軽にご連絡ください。

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鉄扇関連書籍
鉄扇術を取り扱った貴重な本の一冊ですね。鉄扇術の占める内訳は3割程度と少し物足りませんがその他の技術も鉄扇に応用できるものばかりですし、なにより私が知る限り鉄扇術の技術を記した本は2冊しか存在しないので評価は星4つです。結構オススメです♪
鉄扇術関連書籍
合気道の技を軸とする鉄扇術の技法が載っています。私が稽古している内容に近いものも数多く収録されている非常に貴重な本です。相当昔になりますが、購入時も品不足が激しく正直馬鹿らしい値段を出して買う羽目になりました・・・
オススメ鉄扇関連商品
私義鶴が監修して完成させた稽古用・実用向きの勝扇です!もともと販売用ではなく私自身が自分のために設計し地元の伝統工芸士の方に依頼したものですが、このたび「鉄扇堂」から販売されることになりました! 材質と製作難易度が高いため値段もそれなりにしますが、鉄扇術をやっていて市販の稽古用木製勝扇では満足できないかたのみお試しください^^いわゆる普通の人にとってはやたら高く感じるはずです。私は黒檀の丈夫さと質感に満足していますが^^(ちなみに私が使っている最初の一本はこの値段の3倍くらいとられました・・・ 材料の本黒檀が値段もさることながら一本の勝扇に仕上げるだけの大きさを入手するのが困難らしく、業者としては売る意味がないくらい在庫難だそうです(いわゆる黒檀風の練り物は除く)。興味のある方は是非^^
稽古用高級勝扇
上記の本黒檀の系列で、縞模様の入った縞黒檀製です。材質が1ランク落ちるため若干安くなっています。本黒檀ほどではありませんが材料入手が難しいため在庫は極端に少ないはずです。
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